置き去り事件から学んだ 価値観の尊重と今を生きること
北海道の七飯町の少年置き去り事件から6日が経過、無事に保護されて何よりでした。
この事件については、子どもを持つ親の立場から、自己の経験から、教育という立場からしつけか?虐待か?などと世界中で論争が起こっているようです。
この事件は、さまざまな視点から問題を提起してくれました。
今回、独自の視点でこの事件から得た気付きをまとめてみたいと思います。
【学びその1】価値観の押しつけが招く禍
親が子どもをしつけるのは当然のことで義務だと思います。
確かに、大人の目で見て、今回の原因となった他の車に石を投げつけることは迷惑行為に該当しますし、叱るのが当然だと思います。
むしろ、叱らない親がいたら「非常識」だと非難されることも必至でしょう。
今回、大和君のお父さんは良かれと思って、大和君を叱りました。
そして、わからせるため?に林道に置き去りにしたそうです。
悪いことをしたことを叱ることまでは理解できますが、わからせるために置き去りにすることに関しては置き去りにする正当な理由にはなりえないのではないか?
と個人的に思っています。
子どもには子どもの価値観があるのではないか?と。
経験から言うと私も幼いころ、怒られたことが何回もあります。
それに、乗っていた車から降ろされそうになったことも何度もあります。
意地でも降りなかったのを覚えています・・・。
あの時、何とも言えない理不尽さを感じていたことも覚えています。
いけないことをすると、恐怖がやってくると教えたかったのでしょうか?
もしくは、罰したかったのでしょうか?
今となっては、理解はしていますが、幼い頃、あれを愛情だったと言われても腑に落ちることはありません。
子どもには子どもの言い分があると思うのです。
そして、子どもなりの価値観や感性もあると思うのです。
そこをまるっと無視して、躾という「伝家の宝刀」を振りかざすのはちょっと疑問だと、個人的には思うのです。
今回のこの事件で、価値観の押しつけや恐怖による制裁は不の遺産しか残さないことが証明されたのだと思っています。
お父さんの価値を少年に押し付けたことで、ともすると大惨事が起こるところでした。
この事件で残ったのは、(親の)後悔と、寒かっただろうし、怖かっただろうし、不安だっただろう少年の経験だけです。
この件で、少年はお父さんが教えたかった「他人の車に石をぶつけてはいけないよ」ということを身を以て学習できたのでしょうか?
答えはわかりませんが、おそらく「教えたかったこと」はすっかりかすんでしまっていると思うのです。
自分の価値観の押しつけではなく、ありのままの個性や相手の価値観を尊重できる人でありたいと思った事件でした。
【学びその2】今を生きることの大切さ
この事件で私が学んだ2つ目の教訓は、「今を生きることの大切さ」です。
今回の事件では結果的に、無事に保護されたのでこれ以上バッシングされる必要もないと思いますが、万が一大和君がなくなっていたり、ずっと見つからなかったりしていたら、もっともっと大きな問題に発展していたと思われます。
仮の話をしても仕方ないとも思いますが、もし亡くなって発見されていたりしたら、ご両親は重い重い十字架を一生背負って生きていかなくてはならなかったかもしれません。
悔やんでも悔やみきれなかったのでは?と思いました。
もし・・・や、あのときこうしていたら・・・という言葉を使うとき、人は今を生きていません。
思考回路が、過去や未来にトリップしているからです。
今回の事件で少年のお父さんは、「もし少年に何かあったらどうしよう?」や「あの時、あんなことをしなければ」と後悔されたのではないかと思います。
そして、少年が発見されて、今ここに、子どもさんと一緒にいられること、少年が生きていたことを喜び、感謝したのではないかと思います。
今回の事件を観ていて、親子関係に限らず、自分の大切な人達に後悔のないように精いっぱい関わって行きたいなと改めて感じたのです。
そして、「今大切な人と一緒にいられる」ことがいかに当たり前のことではないのかも教えてくれています。
まとめ
今回、色々と学びの多かった事件をみせられました。
田野岡大和君が無事に大した怪我もなく無事に見つかったことを何よりも嬉しく感じています。
そして、生命力に満ち溢れたくましく生きていたことにも感動しました。
ほんとによかったです!
これからも元気に大きくなって下さい。